徳川家康と鷹狩り
徳川家康は鷹狩りを好んで行い、これは当時の武将や支配者たちの贅沢な娯楽の一つだったと、伝えられています。鷹狩りは狩猟の一環として行われ、高貴な社交の場ともなりました。将軍や大名が鷹を使って獲物を狩り、その腕前を競い合うことが行われ、鷹狩りは武将の威厳や統治力の象徴ともなっていたようです。
鷹狩りの歴史
鷹狩りの歴史は古く、新石器時代に中近東で発生し、伝播してきたと考えられています。奈良時代に成立した「日本書紀」に鷹狩りの記載が見られ、日本でも非常に長い歴史があることが窺い知れます。
奈良・平安時代に鷹狩りはブームとなり、嵯峨天皇によって「新修鷹経」という鷹狩りの技術書が作られました。
位の高い娯楽としての地位を確立
鷹狩りは続く天皇の多くが鷹狩りを好んだこともあって公式の狩場が定められたほど、人気が高かったようです。平安時代までの鷹狩りは天皇や貴族のための娯楽という位置づけで、位の高い者が習得する技術だったようですが、その後、鎌倉時代になると武家社会においても鷹狩は行われるようになりました。
織田信長も魅了された鷹狩り
織田信長や豊臣秀吉も鷹狩りを好み、信長の人物記である「信長公記」には、信長は各地で鷹狩を行なっていた、という記載が残されています。
徳川家康と御成街道
徳川家康は鷹狩りの為に「御成街道」と呼ばれる 船橋〜東金〜山武 を道を建設し、問屋町として発展していったようです。道中に将軍が休息・宿泊するための施設として船橋東照宮、千葉御茶屋御殿、千葉御殿、東金御殿、土気御殿が造られたとの文献が残っております。
東金遠征にはたくさんのルートがあった
戦国乱世の時代、身の安全の為に東金に入るためのルートは固定されておらず、東金街道や土気街道、さまざまなルートを使い鷹狩りを楽しんでおられたことが各地方の文献で残されておられます。